震災のこと、自転車のこと、明日のこと

震災から間もなく三ヶ月。思うところあって久しぶりに書いてみる。
改めて亡くなった多くの方々のご冥福を祈りたい。そして今もなお、数万人の方々が避難所や倒壊した(しかかった)家屋で不自由な生活をし、また原発事故で住み慣れた土地を離れた方もいる。福島第一原発の行方は未だ不透明。復興は長い道のりになるのだと改めて思う。
津波ですべてが流されてしまった町の写真や映像を見るたびに、自分ならば「一体、この町を、そして自分の生活をどうやって立て直すのか」と途方に暮れてしまうと思う。あるいは町の景色は以前とかわらないのに、目に見えない「放射能」という厄災で故郷を離れなくてはならない理不尽さ。
正直なところ、自分がその立場なら正気を保っていられたかわからない。その想像をするだけで、今いる自分の足下がぐにゃりと崩れてしまうような気持ちになる。

思うところは沢山ある。だけど僕がにわか仕込みの知識で震災復興や節電方法やボランティアの作法、ましてや原発問題を語ってもあまり意味はない。せめて僕のわかること、自転車を切り口に書いてみる。

自転車業界も被災地の支援を行っている。僕の知っている範囲ではジャイアントが1,000台キャノンデールが300台の自転車を無償提供するという。
素晴らしいと思う。これだけの台数だ。日本法人だけの判断ではなく、メーカー本国の意志決定があっただろう。被災地に対して多くの支援を行ってくれたアメリカ(キャノンデール)と台湾(ジャイアント)という二つの国の自転車メーカーがこういった面でも支援をしてくれる。感謝してもしきれない。
国内メーカーではブリヂストンが自転車の無償提供に加えてメンテナンス支援も行っている。メンテナンス支援ができるのは国内メーカーだからこそだ。

ただ気になるのは、これだけの台数の自転車が、ちゃんと被災地の役に立つ方法で運用されるのかということ。日本のお役所はよく言えば公平で律儀であり、悪く言えば融通がきかないと言われる。被災者の皆さん100人になにかを配るときに、99個しかなければ「公平でない」という理由で、その物資を配らない、などという記事を読んだ。クルマが流され、公共交通網もまだ完全に復旧していない。生活の足がないというエリアもまだまだあるはずだ。ぜひ機動的にこれらの自転車が運用されればと思う。
そしてこれらの自転車は定期的にメンテナンスを行わなければ、やがて本来の性能を発揮できなくなり、放置すれば朽ち果ててしまうということを僕らは知っている。自転車業界の皆さんが被災地に蒔いてくれた種を枯れないようにちゃんと支援していく。この辺りに自転車乗りが自転車乗りらしいやり方で被災地を長期間に渡って支援していく方法の糸口があると思う。
震災から間もなく、津波で半壊した店先で泥まみれの自転車を無償で修理する地元の自転車店のニュースを見た。そんな被災地の「自転車屋のオヤジたち」も応援したい。

陸前高田という自転車乗りには縁の深い町も大きな被害をうけた(陸前高田は2005年まで20年に渡って、日本では数少ないアマチュアが参加できる公道レースを開催していた)。町の惨状に胸を痛めたホビーレーサーも沢山いるんじゃないだろうか。町の皆さんには「以前と同じ静かで美しい港町を」という思いもあるだろうし「子どもや孫、末代まで安全に暮らせる町作りを」という思いもあるだろう。うまくバランスがとれれば、と思う。町や村の復興にぜひ自転車の活用も盛り込んで、と自転車乗り的には思ってしまうけれど、まだまだそれは気の早い話だ。今でもまだ6000戸以上が断水状態だという(かつて陸前高田のレースに参加した人たちが現地を支援しているという記事を数日前に読んだ)。

ガレージから自分の自転車を出し走り始める。僕は自分が今走っている道が被災した東北の町や村まで「繋がっている」ことを知っている。以前、山形県の酒田まで走る途中で一泊した郡山の町にも多くの人が避難していると聞く。郡山までは僅か230kmだ。酒田行きのルートは国道6号(海寄り)で行くか4号(内陸)で行くか悩んで、結局時間的なことで4号を選んだ(4号はつまらない道なのだ)。また酒田までは走る機会があるだろうし「次回は海岸線近くを」と思っていたけれど、国道6号を北上する旅は当分お預けだ。国道6号福島第一原発に最も近いところでは直線で2.5kmしか離れていない。

原発事故直後から、僕のサイトに多くの人が訪れるようになった。「100km走れるようになったらどこまで行かれるか」をGoogleMapsのAPIを使って調べてみようというコンセプトのページだけれど「福島第一原発から半径何キロ」を調べるのに使えるといくつかのサイトで紹介されて一気に人が押し寄せた(押し寄せたと言っても3/15前後の数日で10,000アクセスくらい)。原発については事故発生直後は情報不足(今も、か?)だったから、本来の目的とは全く違う目的だったにせよ、なにかの役に立ったのならよかったと思う(今は福島第一原発をマップの中心に置いた臨時ページを作ってある)。

僕の住む東京でも震災直後の交通機関のストップとエネルギー供給不足でにわかに自転車(通勤)がクローズアップされた。慣れないツーキニストのために@akirasekさんを中心にtwitterの自転車通勤クラスタがすぐさまサポートを開始した。こういった事態でのtwitterの機動力は素晴らしい。

今の時期は季節的にメディアが自転車のことを取り上げることが多い。様々な番組や記事が震災のことにふれ、電力不足やエコに絡めて自転車を語る。理由やきっかけがなんであれ、自転車に関心を持ってくれる人が増えることは嬉しいことだ。しかしそういったことは自転車が活用されることの社会的な意義ではあるけれど、個々人にとってはもっともっと重要なことがある。
自転車が乗る人にもたらす最大の効果は「人を強くする」ことだと思う。
子どもの頃からずっと自転車に乗り続けている人は、それがあたりまえのことで実感しにくいかもしれないけれど、僕のように中年になってからロードバイクに出戻ったり、新たに乗り始めた人は、自転車が生活の一部になっていくに従って、自分が強くなったという感覚があるのではないだろうか。自転車に乗り、健康なカラダになり「強くなる」。それももちろんあるけれど、ここで言いたいののはそういう意味ではない。もっと「いきもの」としての本能に近い根源的なことだ。

強さをもたらすのは、自転車の持つ圧倒的な身体能力の拡張感だ。拡張感のダイレクトさ、拡張率の大きさ、その二つに於いて自転車は他に比類ない。自らの脚で強くペダルを踏む。すると自転車はあっという間に加速する。自分の力だけで30km/hで走り続けることができる「道具」なんて他にない。自転車に乗らない人ならクルマや交通機関がなければ途方に暮れてしまう距離を事も無げに走りきる。ロングライドのツワモノでなくたって100kmくらいは軽い。電気が無くても化石燃料を燃やさなくても、自分のカラダだけでそんなことができる。それを知っていることは人としての根源的な強さにつながると思うのだ。
「自転車がなけりゃ同じじゃん」「がれきで道路が使えない被災地じゃしょうがない」いやいや、言いたいことはそういうことじゃない。それは自転車という道具の可能性と強さであると同時に、人間が持つ可能性であり強さだ。自転車乗りはそれを知っている。そして自分の「カラダ」がそれをできることも知っている。自分が持つ可能性を知っている人は知らない人より遙かに人として強いと思うのだ。

以下に載せた文章は、僕の最初の本「自転車で遠くへ行きたい。」のまえがき全文だ。自分が自転車について書いた文章で僕はこれが一番好きだ。今でも時々このまえがきを読み、自分を勇気づける。自分の書いたもので自分を勇気づけるとは、なんと脳天気で安上がりなヤツだと思われるかもしれないけれど、恥ずかしながら実際そうなのだ。これはこれからロードバイクロードレーサー)に乗ってみよう、ロングライドをしてみようという人の背中を押すために書いた文章であり、同時に当時の僕にとっては未知のことであった「本を書く」という作業を前に、自分自身を鼓舞するために書いたものだ。つまり二重に「新しいことに向かう人の背中を強く押す」意味を持って書いている。

途方もない距離を走る。気が遠くなるような険しい峠を越える。自分を鼓舞し強くペダルを踏む。ペダルを踏み続ければやがて目的地に辿り着くし峠は越えられる。震災復興、そして原発事故。道は遠く峠は険しい。沢山の人が「明日のために」そんな強さを持ってくれればと思う。

                                                                                                                                    • -

「自転車で遠くへ行きたい。」まえがき

この本を手にとってくれたあなたにとって、自転車で行く「遠く」とはどのくらいの距離のことだろうか。あなたが実用車(いわゆるママチャリ)しか乗ったことがなければ20kmか30kmくらいだろうか。「最近運動不足だし、ちょっといい自転車を買って少し遠乗りしてみようかな」と思っている人ならば50kmくらいかもしれない。
学生時代から40代に至るまで、スポーツには縁遠い生活を送っていた僕にとっても、自転車はせいぜい10km程度を移動するための乗り物だった。

これから僕がこの本で書こうとしているのは、もう一桁上の距離の世界だ。

「そんな長距離なんてとてもとても」と思うかもしれない。でも、あなたがロードレーサーを手に入れたならば、50kmがたやすく走れる距離であること、100kmが手の届く距離であることにすぐに気がつくだろう。そしていずれは200km、300kmという距離を走ることも不可能ではないと気がつくはずだ。
今は信じてもらえないかもしれないが(東京近郊に住んでいる人ならば)その気になれば1日で往復200km、東伊豆で海鮮丼を食べて帰ってくることも、片道300km、日本海まで走って夕焼けを眺めることさえできる。そして、その距離を走る間に見ることができる景色は、エンジン付きの乗り物から見る景色とは全く違うものだ。もちろん辿り着いた目的地で見る景色も全く違って見えるはずだ。
ロードレーサーとはそういう乗り物だ。
僕はロードレーサーに出会って生活が一変した。見たことのなかった景色をたくさん見た。走ったことのなかった道をたくさん走った。自転車仲間という多くの新しい友人も得た。体型もずい分変わった。そしてなにより、僕のこころの奥底の何かが大きく変わった。再生した、と言ってもいい。そんな自分の体験を伝えたくて僕はペンをとった。ロングライドに興味がある人にはもちろん、今、こころのなかで何かが停滞していると感じている人にもこの本を読んでもらえればと思う。

自転車で遠くへ行きたい。
その「遠く」とは物理的な距離だけではない。ロードレーサーはあなたのこころも「遠く」へ連れていってくれるはずだ。