緑の小鳥

今朝、沼袋の裏通りを歩いていたら道ばたに緑色の小鳥がいるのに気がついた。最初は作り物かと思ったのだけど、しゃがんで見てみるとかすかに動いている。指先で羽をなでても逃げる気配がない。怪我をしているのかと思い手のひらに載せても逃げない。この辺りは猫が沢山いるので放置すればあっという間に捕まってしまうだろう。どうしよう、一旦家に連れて帰るか。
左手に小鳥を載せて右手で覆い隠すようにして「お・も・て・な・し」みたいなポーズで家まで歩いた。ときどき立ち止まって手の中を見ると、意識はあるのだけれど茫然自失みたいな。目は開いているけれど状況は認識してないような。人間で言えば貧血で駅のベンチに座っている人のような。
数分歩いて家の近くまで来るともぞもぞと動き出した。指のすき間から外を見てキョロキョロしている。「あれ? どうしたの? ここはどこ?」と我に返ったような感じ。寒さで固まっていたのが手のひらの体温で暖まって意識を取り戻した? 
家まで戻ってきて、使ってない人形ケースがあるからそこに入れるか、なにか餌も買ってこなければ。雨降ってきたし買いに行くのはちょっと面倒くさいな… と思った瞬間、指のすき間から小鳥が逃げ出して、向かいの家の塀の上にとまった。
「あ、ごめんごめん。面倒なんかじゃないから、暫くウチで休んでいきなよ」
そう思って歩み寄ろうとしたら飛んでいってしまった。
今度はこっちが茫然自失。なんだかとんでもない大失敗をしてしまったような気がして暫く落ち込んだ。「面倒くさい」という気が頭をかすめた瞬間に小鳥は逃げ出した。こちらの気持ちを感じ取ったかのように。
「ご迷惑はおかけできません。失礼します」なのか「あんたなんかの世話にはならないわよ。ぴー」なのか。それとも「寒くて気を失ってましたがもう大丈夫です。お世話になりました。では」なのか。
古今東西、小鳥にまつわる寓話や童話が沢山あるのはこういう理由なのか。手のひらの小鳥が飛んでいく(飛んで行ってしまう)。ただそれだけで、こんなにも複雑で様々な感情がこころのなかにわき起こるとは。飛んでいった小鳥は自由や希望の象徴か、喪失や失敗の象徴か。その人の心象風景の鏡だな、きっと。
ま、怪我をしていたのではなくちゃんと飛べるのならよかった。そう思って自分の気持ちを引っ張り上げた。今日はそのあと日が暮れるまで、小鳥の鳴き声が聞こえるたびに窓から外を眺めて、緑の小鳥の姿を探していた。