嘘じゃない

pedalfar2009-04-26

嘘は書かない。「そんなのあたりまえじゃん」と言われそうだけど、でも当たり前だからこそ拘った。走ったことのない道を走ったことがあるかのように、やったことがないことをやったことがあるかのように、そんなことははなから書くつもりはない。拘ったのは「本当にその時、自分はそう感じたのか」ということだ。この答えは僕自身しか知らない。

初めてツール・ド・おきなわ本島一周に参加する前、ネットで情報を探していて、ある人の走行レポを見つけた。詳細に書かれたそのレポは僕の心を「走ってみたい」という気持ちに傾かせた。決定的だったのは「ゴール前、もっと走っていたい気持ちになった」というくだりだ。でも、あなたはそれまで散々「しんどい」と書いていたじゃないですか。それなのに「もっと走っていたい」という気持ちになったのはどういうことなんですか。理由を知りたくなった。
その答えは僕自身が300km以上を走り、ゴールの名護まであと数kmとなった「その場所」にあった。僕も「もっともっと走っていたい」という気持ちになったのだ。そう、その人の書いたことは本当のことだったのだ。
最初の年は見つけられなかったのだけど、二度目の参加の時、レポを書いた人を見つけてお礼を言った。「あなたのレポのお陰で素晴らしい体験をすることができた」と。彼は驚きつつも「あんなレポでもお役に立ったのなら嬉しい」と喜んでくれた。僕は最初の本を書くとき、この体験を強く意識した。僕も「本当のこと」を書こうと思ったのだ。

僕は普通の人だ。なにか崇高な志で高みを目指すように走ってきた訳じゃない。カッコつけたり見栄を張ったりしたって意味はない。だって、誰もこの本を書いた僕のことなど知らないのだから、張るべき見栄すらない。ならば嘘を書く理由などなにもない。

ロングライド体験は300kmくらいまでは非常に再現性の高い体験だと思う。そこで得ることができる感動は普遍的というか、「普通の人」でも走りさえすれば必ず手に入れることが出来る感動だと思う。そのことを伝えたい。だからこそ嘘を書いてはいけないと思った。僕の本を読んでロングライドにチャレンジしてくれた人に「あいつの本は文章は拙いけれど、書いてあることは嘘じゃない」と思われたかった。そうやって僕の書いたことを信用してもらえたならば「あいつが走れるというのならば、俺もあと100km走ってみようか」「ブルベは楽しいのかもしれない」と思ってもらえるのではないか、そんなふうに考えた。そして信用してもらえたならば、もし僕が二冊目、三冊目の本を書くチャンスを得たのなら、また本を手にとってもらえるだろう。

一旦原稿を書き上げたあと、何度も読み返して自問自答した。「この表現に嘘はないか」「本当にそういう気持ちで走ったのか」。そして何度も書き直しをした。虚飾を排し、出来る限り率直な言葉を使って書いた。カミさんにチェックしてもらうと「あっさりしすぎていて、逆にカッコつけている印象」と言われた。少し悩んだけれど、どう書き直せばいいのかわからなかった。それは僕の筆力の限界だったのだろう。

出版後、感想のメールを沢山いただいた。ブログで紹介してくれた方も沢山いた。「この本を読んでロードを買った」「この本を読んでブルベに初エントリーした」そんな嬉しい感想ばかりだった。「ああ、書いてよかった」心の底からそう思った。伝わったんだ。

ロードに乗り始めた頃、何冊かの自転車関連本を読んだ。非常に役に立った本もあった。でもそれらの本は、読み終わったあと「なるほど、そうやって走ればいいのか」という本だった。僕は「読んだあと走り出したくなるような本」を書きたかった。読み終わって本を閉じたあと、10分後にはサドルの上に居たくなる、そんな本を書きたかった。
でも僕は自分の本にちょっと不満だ。なぜかと言えば「楽しく読ませてもらいました。でも、私には600kmとかは無理そうですが」そんなエクスキューズが感想のメールに書かれていることがある。どうやら僕の書いたことは完全には信じてもらえてないようだ。筆力のなさが故だ。もっと精進しなければ。

「ロングライドに出かけよう」に登場する「距離感が壊れている人」の一人が「どうやったらそんな距離を走れるようになるのですか?」と聞かれて、こう答えていた。

「あなたが走ろうと思いさえすれば」

そう、走ろうと思えば、誰だって走る事ができる。誰だってその感動は手に入れることができる。
それは「嘘じゃない」。