違和感がある日は乗らないことにしている

前回のエントリーをアップした後、何人かの方からすぐにtwitterで感想をいただいた。東京〜糸魚川ファストランを一緒に走ったことのあるmasahifさんは「知らない道を走っているとストレス溜まるんですよ」と言う。JCRCを走るホビーレーサーであるmasahifさんは「各種のデバイスで同じコース(皇居、大井、群馬、沖縄)を走る事に ある種の楽しみを見出してしまいました。」(デバイスっていうのはパワーメーターとかそちら系のことね)。なるほどー。masahifさんにとって自転車で走る事はかなりの部分がレースに直結しているってことなのかしらん。自転車通勤するならば、それはトレーニングの一環であり、基本的に同じコースを走り自分の走りの内容を吟味するというか。
vm_converterさんも「コースを固定してても味わえる楽しみもあると思っています。」とのこと。やはりデバイスでログを取ることによって、その変化(主に自分の肉体的変化)を解析するのも楽しいという視点。すぐにこちら方向のレスポンスをいただいたってことは、結構こういう楽しみ方を自転車通勤も含めた「走ること」に見いだしている人が多いのかも。レース系の人、トレーニング志向の人は当然そうか。大雑把に分けると、自転車を買って最初に欲しいと思ったデバイス心拍計の人とGPSの人の違いとか。どちらにしても毎日自転車通勤をする楽しみを見出せるのならば、それは長続きの秘訣だろう。
でも通勤時間を短縮する(=速く走る)ことにハマると危ない。結構いるんですよね。いつもの通勤経路で「何分短縮」とかいう人。自転車通勤であまりリスクを冒しても意味ないし。

で、前回の最後に書いた、僕なりの「自転車通勤の鉄則」だけど、一言で言ってしまえば「無理しない」ということだ。「なんだよ。つまんねー」と言われそうだけど、この「無理しない」という意味は複数ある。ひとつは乗り気がしないのに無理に乗らないということ。なんだか疲れているし「今日は乗りたくないなー」と思ったら無理して乗らない。もうひとつは乗りたいけれど無理しないということ。夕方から天候が荒れる予報だったら無理にその日は自転車通勤しない。どちらの理由にしろ無理すると長続きしないと思うのだ。一番最初に少し頑張って(無理しないというのとちょっと矛盾するけど)一ヶ月ぐらい乗り続けていると、家を出てサドルに跨って自転車で行くというのが日常の感覚になってくる。逆に駅まで歩いて電車の乗ることがイレギュラーなことに感じるようになれば、あとは無理しなくても長続きするように思う。

もうひとつ、僕は「無理に乗らない」時がある。それは「違和感」がある時だ。これは自転車通勤に限らない。自転車に乗るときすべてそうしている。家を出るときにシューズを履き、ヘルメットを被り、グローブを付けてサドルに跨る。そういった自転車に乗る前の一連に流れの中に「ん、なんだか違和感がある」そんなときには乗らない。
僕は予知能力があるわけじゃないし霊的なものも信じていない。でも自分の感じる「違和感」には忠実に従う。違和感は何かのサインだと思うのだ。

僕は路上駐車のクルマのドア開けに引っかかって結構派手な落車をしたことがある。急に開けられたドアに左のSTIレバーが引っかかったのだけど、落車した後、数秒間、自分がなぜ道路にころがっているのか全く把握できなかった。急にドアが開いて止まりきれずに突っ込んだのではなく、僕がドアの横を通り過ぎる、まさに絶妙(?)のタイミングでドアを開けられたのだ。自転車に限らず、事故というのは後から考えてみると、運命的というか、予め決まっていたかのようなタイミングで起きる。その前に起こったことすべてが、その瞬間に合わせて組み合わさっていく。
たとえば落車現場のひとつ前の信号で止まり、信号が変わって走り出すときにクリートがちょっとうまく拾えずに数秒モタモタしたとする。もしスムーズに拾えていたらクルマのドアが開けられる前にその場所を通り過ぎていただろう。もしもっとモタモタしていれば数メートル手前でドアが開き、直前で止まる(或いは避ける)ことが出来たかもしれない。そもそもその信号になぜ引っかかったのか。その前の信号をギリギリのタイミングで渡ったから。もしひとつ前の信号で止まっていたら、次の信号には引っかからなかったかもしれない。もう少し時間を遡れば、コンビニ休憩を1分早く切り上げていたらすべてのタイミングが変わっていたかもしれない。もっと遡れば昼食休憩をもっと遅くしていればコンビニ休憩はしなかったかもしれない・・・そしてずっとずっと時間を遡れば、その日は走らなければ事故は起こらなかったということになる。それを知らせてくれる、「今日はやめておいたほうがいいかも」と教えてくれる、それが「違和感」なんだと僕は思っている。

二輪車の交通安全教則本に出てきそうだけど、自分の進行方向の先で歩道から車道に降りこちらを見ている人がいる。それを見て「タクシーを拾おうとしているのかな」と思う。自分の後ろにタクシーがいないか、もしいればタクシーは自分を追い抜いてその人の前に止まるかもしれない。或いはその前に自分がその人の前を通り過ぎることができるかもしれない。そんな判断を瞬時にする。或いはもっと先にスーツケースを転がし時々後ろを振り返りながら歩く人がいたする。それも「タクシーを拾おうとしているのかな」と予測する。自分の前をタクシーが走っていれば、この先で止まるかもしれないと予測して走る。たとえば砂利を積んだダンプカーに追い抜かれる。もしかしたらこの先にダンプから落ちた砂利が路面にあるかもしれないと予測する。路上駐車のクルマの右側を走っている。ドアミラーに動くなにかが写る。人が乗っている。ドアを開けるかもしれないと予測する。

日常的に都会でロードバイクに乗る事は、日常的な行動に危険度で順位を付ければ、かなり上の方だ。都会の路上をロードバイクで走る事はそのリスクをいかに避けるかを予測し判断することの連続だ。そんなことを日々繰り返していると、なにかの感覚が鋭敏になり、その延長線上で僕が時々感じるような「違和感」にだんだんと気がつくようになるんじゃなかろうか。そんなふうに思う。もちろん、そうやって乗らなかった日には何事も起こらない。だから「もし乗っていたら何かがあったのか」それはわからない。ドアに引っかかって落車した日はどうだったろうか。違和感の記憶はない。あったのかもしれない。でもその日は僕が企画した走行会の日で「乗らない」という選択肢はない日だった。

シックスセンス。第六感。虫の知らせ。いろいろ呼び名があるけれど、この「違和感」はそういう言葉からイメージされる超常現象ではなく、走り続けたことで身に付いた危険を予測(予知ではない)する何かなんじゃないかと思う。何かの揺らぎを感じ取る感覚というか。もし一緒に走る約束をしたのに僕がドタキャンをしたとしたら「そういう日なのかな」と思ってください。すみません(^^);;


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